伯父から聞いた静雄さんのお話

























おじさんと伊東静雄についていろいろ教えて下さい。

Q:初めてあったのはいつ、どこで? 何歳の頃?

私たちはいとこであり親に連れられて行ったと思うので何才であったか分らない。場所は伊東家のある這松下でしよう。 静雄さんは私より5才年上。私の父の長姉の四男。


Q:そのときの第一印象は?

だから第一印象も何も分からない。


Q:家庭教師をしてもらっていた頃(何歳の頃,何を教えてもらっていたのか、週何回,教え方はうまかった? などなど)

家庭教師というのでなく、私が小学6年の夏休みに毎日1時間英語を習いに行った。静雄さんは佐高に入ったばかりの1年生。教え方が上手かどうかは分からない(自習形式だったらしい)。


Q:伊東静雄さんが子供の頃のエピソードなどあれば

伊東家に行った時,裏の見える座敷のお縁で何かしているのをおぼろげに覚えている程度。


Q:伊東静雄さんが高校の頃のエピソードなどあれば

私が中学生になると大分記憶が出てくるが,静雄さんの高校時代のことは伊東静雄全集に私が書いたのが載っているようにその記憶は最も鮮烈。数え上げきれない位静雄さんが旧制高校の生活を最も満喫したと思われる程。


Q:おじさんが京都帝大を受けたのは,伊東さんの影響があったから?

それもあったでしょう。私はほんとは東京に行きたかったのだが,学費が京都より高いということで諦めたこともあり、静雄さんもその弟で私の同級生でもある寿恵男君も京大に決めたので自然私も京大になった。その頃京大文学部の教授は東大よりすぐれた人が多かった。入学の時私は知らなかったが。


Q:伊東静雄さんが大学生の頃のエピソードなどあれば

その頃私は佐高生だったわけですが、此亦記憶は色々あり何を云ったらよいか分からない。夏,冬の休みに一緒になったわけで,高校から大学まで静雄さんは友人と強く交友していた。


Q:おじさんが大学生の頃、伊東静雄さんと行き来はあった?

夏,冬の休みに私は帰省する途中,大阪の静雄さんの所にキップの期限のある1週間位お世話になった。その時大阪の町など案内してもらった。


Q:一緒に食事したり,飲みにいったりしたことは?

余り記憶にないが,喫茶店には行っていたようだ。


Q:学生生活のアドバイスを受けたり,就職に関して相談したりしたことは?

私は大学を卆業しても不景気のどん底時代で職がなく(同級生も一人も就職しなかった)静雄さんの所に居候してバイトなどしていた。その時よく食後など嫁さんの花子さんと三人でよく散歩した。その時静雄さんお得意の漫談が出て面白かった。その頃第一詩集「わがひとに与うる哀歌」の出版記念会が東京であり、その時の話は印象深かった。


Q:静雄の詩に節をつけて詠っていたのはいつの頃?  そのときの様子や思い出など

静雄さんの佐高の寮歌を歌うのを聞いたのは私が英語を習いに行っていた時。自己流の独特の歌い方で遊びに来ていた大塚さんのそばで歌った。後自分の詩や萩原朔太郎の詩を自己流の歌い方で何度も歌ってきかせ,私もそのいくつかの詩の歌い方で詩を覚えた位だった。


Q:諫早の街を,静雄さんが友人たちとマントを着て闊歩していたのはいつの頃?

私が見たのはマントは着ていない。白い浴衣に黒帯,低い下駄。一緒の人は最も親しかった大塚さん,馬場さんの三人で三人とも髪を無精髭に伸ばし,馬場さんはおかっぱ。それで諫早の本町通りを横に並んで歩いてくるのに出会った。これもよく覚えている。私の中学生時代。


Q:静雄との会話の中で,三島由紀夫が話題になったことは?

余り記憶にない。


Q:ほかの詩人や小説家との交流について話を聞いたことは?

私の知るところでは彼を第一に推せんした前述の萩原朔太郎、出版記念会のあと中原中也と肩をくんで夜の東京の町を歩き彼の家に泊ったということ。又彼を最初に推薦した保田輿重郎(コギト)などがある。


Q:最後に会ったのはいつどこで、そのときの様子など

余り記憶にない。 彼の家にお世話になったのは失業時代半年位でその後諫早に帰っていた。彼と同居していた彼の母の死去,そのお葬式に彼の姉の江川ミキさんと私も同行(大阪行)し,その母の遺骨を持った静雄さんと三人で諫早に帰った。その後私は1年 に五島中に就職したので静雄とはそれが最後ではなかったかと思う。


Q:その他何でも思い出すことなどを

とにかく高校、大学、就職後、又詩人として活躍しだした頃の友人についての話が一番印象が強い。本人は就職した住吉中学の生徒たちから「乞食」というあだ名をつけられた位髪を伸ばしてむさくるしい状態だった。又父兄会の時或る母親が先生は十円札(十円は今の一万円位か)を落としても見むきもせずに行かれたそうですねといわれ、「冗談じゃない。私は10銭落しても血眼になって探しますよ」といったとか冗談を言った。とにかく生徒や父兄からは変人扱いされていたようだが、詩人として名が売れだしたら皆どう見たか。

静雄さんの中学時代は文学熱が高かったようで特に通学時間の長い諫早出身が後文学方面で活動した者が多かった。早大文学部の教授になった者、詩人、小説家を志して上京したが早逝した人があり一年下級にも早大教授。また今活動している市川森一氏の父は同志社大の生徒だったので静雄さんは一緒に短歌会,俳句会に出ていたようだ。そして後には地方俳壇の宗匠になった(市川氏)。しかし静雄さんは彼等の話には余り加わらなかったようなので、彼等は静雄さんをくそ勉強家と思っていたようで,後にこんな詩人になるとは思いもよらなかったと前述の早大教授は思い出にかいている。

しかし静雄さんはちゃんと皆の話を吸収していたようで佐高に合格したあとすぐの大村中の交友会誌の求めに書いた手紙(その下書きが残っていた)に驚く程すぐれた意見を書いている。即ち彼の詩への関心は中学時代にあったと思われる。うちの家内の貞子は静雄さんとは一度会ったきりだそうだが,その時腹の底まで見すかされたようだ(*)と驚いて云ったことを私はよく覚えている。即ち精神が鋭く強いのでしょう。ただ頭がよいというのとは違うと今でも二人で云っている。

(*)「眼力というか見透かされる様な目で”天才”とはこんなものなのだと感じた」 と母は言っています(順子)

注:少し読みにくい文脈もありましたが、訂正せずにそのまま載せています。
この伯父も本年(平成27年)7月、103歳という長寿を全うしました。

おそらく就職浪人中にもらったと思われる書籍 


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